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プロとして活躍しているマンガ家さんたちもかつては新人さんだった(あたりまえだけど)。新人のマンガ家さんにとってデビューは良きにつけ悪しきにつけ、忘れられないターニング・ポイント。このコーナーでは、マンガ家さんのデビューの頃の話を質問形式で語ってもらいます。
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【第13回目のゲスト/のなかみのる先先生】
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【のなかみのる先生への30の質問】
- デビューはいつ頃ですか?
一度、高校1年生(16歳)の時にデビューしましたが、
当時は岩手の一戸と言う田舎に棲んでおり情報不足の恐怖から
途中で打ち切らせて頂き、高校2年生の春に上京し、
永井豪先生の会社ダイナミックプロのテストを受け合格し
内定の念書を片手に卒業した後、アシスタントとして入社し
2年強修行を積ませて頂き、21歳の時再デビューしました
- デビュー作のタイトルは?
1度目のデビューは『コミックレター』。
2度目のデビューはコミカライズで、
『ウルトラマン対宇宙鬼』と言う作品でした。
オリジナル作品のデビューは『それ行け!コロット』です
- デビュー作の簡単なストーリーを教えてください
『コミックレター』は単純に交換日記の漫画版です。
漫画家を目指す2人だったが、
進学し地元に残る主人公と
家庭の事情で東京に就職をせざるを得なかった友人とが、
離れて暮らしながらも漫画と言う手段を用い互いの近況を
伝えあい夢に向かう、と言うお話です
『ウルトラマン対宇宙鬼』は
誤解や騙しから殺し合いにまで発展する事もある、を主題に、
とある宇宙人の自星が消滅の危機にあり
地球を新しい棲息の地と選んだが
ウルトラマンに阻止されると考えた宇宙人が、
邪魔なウルトラマンを倒す為ウルトラマンより強い力を持つ
宇宙鬼を騙しウルトラマンを消滅させる作戦を決行するが、
ウルトラマンと宇宙鬼の誤解が解け、宇宙人を倒し和解する、
と言うお話です
『それ行け!コロット』は
子供の頃、意味も無く捨てられずにいたオモチャが主題で、
オモチャ好きな子供が、親に壊れたので捨てろと言われた
大量のオモチャに命が宿れば捨てられなくてすむと考え、
願いをかけると大量のオモチャが一体のコロット
(コロボックルロボット)となり、人と同じように命を持ち
生まれ変わってくれたお話です
- デビュー作でもっとも描きたかったことは?
『コミックレター』いつまでも変わらぬ友情です。
『ウルトラマン対宇宙鬼』疑念、疑惑、悲しい欲望、
払拭、和解です。
『それ行け!コロット』捨てられぬ想いであり懐古(死)と
発展(生)です。
文章にすると硬い感じですね…
- デビューした雑誌は?
『コミックレター』近代映画社関係の小冊子です。
『ウルトラマン対宇宙鬼』小学2年生(小学館)です。
『それ行け!コロット』小学2年生(小学館)です
- どのような形でデビューしましたか?(マンガ賞受賞作、持ち込み作など)
『コミックレター』は投稿です。
『ウルトラマン対宇宙鬼』はイラストを持ち込みし、依頼を頂きました。
『それ行け!コロット』はネームを持ち込みし、依頼を頂きました
- デビュー作はマンガを描き始めてどのくらい(期間)でしたか?
小学2年生(8歳)からコマを割って漫画を描き始めたので、
『コミックレター』だと高校1年生(16歳)ですので8年で、
『ウルトラマン対宇宙鬼』、『それ行け!コロット』の時であれば、
21歳ですので13年間と言う事になります
- またそれは何作目ぐらいでしたか?
完全に仕上がった原稿の本数であれば、
『コミックレター』では30〜40作くらいかもしれません。
『ウルトラマン対宇宙鬼』、『それ行け!コロット』の時であれば
60〜80作くらいかもしれませんが、昔の話すぎて記憶が曖昧です
- そのころの本業(学生、フリーターなど)はなんでしたか?
『コミックレター』時は高校生で似顔絵荒らしや
アルバイトもしていました。
『ウルトラマン対宇宙鬼』、『それ行け!コロット』時は、
独立した直後ですが永井豪先生に作品まるごと
一本のアシスタントをさせて頂いたり、
永井豪先生の口利きでダイナミック企画で企画やキャラクターデザインの
御手伝いをさせて頂いたり、永井豪先生主宰の
人形劇団のキャラクターデザインを
させて頂いたり、絵本を描かせて頂いたり、
柳沢きみお先生の臨時アシスタント等もさせて頂いていました
- そのころは本気でマンガ家を目指していましたか?
当然、天職と思い頑張っていました
- もしマンガ家としてデビューしていなければどんな仕事につくつもりでしたか?
漫画家になる事以外は一切考えた事はありません
- マンガ家デビューの際の家族の反応はいかがでしたか?
厳しい世界に揉まれ諦めると思ったのに、
ついにヤクザな道に入ったか…どうせダメになるなら、
やり直しの利く内に早くダメになって欲しい反面、
うまく行くなら贅沢でなくて良いので漫画だけで一生御飯を
食べて行けるくらいになって欲しいと思っていたそうです
- 目標としていたマンガ家さんがいたら教えてください
一峰大ニ先生、石ノ森章太郎先生、永井豪先生、石川賢先生、
桜多吾作先生、蛭田充先生を筆頭に小山田つとむ先生、風忍先生、
真樹村正先生、岡崎優先生、小野誠先生、安田達矢先生、石綿周一先生、
と挙げればキリがありません。一峰大ニ先生は例外として、
石森プロ、ダイナミックプロの諸先生方が目標でした
- そのマンガ家さんのどこにひかれていましたか?
一峰大ニ先生は作品から溢れる優しさと読者に対し理解しやすく伝える心です。
石ノ森章太郎先生は人物、構成、ストーリー等の総合的な魅力です。
永井豪先生は読者に迎合しない作品の切れ味と大胆な感性と
エンターテイメント性と天才的な独自の絵柄とスタイルを築きあげた所です。
石川賢先生は迫力と緻密さと遊び心と絵柄や構成、
構図とキャラの作り方です。
桜多吾作先生は絵柄の魅力と構成力の素晴らしさ完璧さと
ストーリーテーラーでありエンターテイメントな部分です。
蛭田充先生はコミカライズの際の作品への尊敬と理解力、
核がぶれない所です。
実際に御会いしてますます好きになった方々であり、尊敬しています。
他の諸先生も同様に挙げればキリがありません
- デビュー作の原稿料または賞金は何に使いましたか?
『コミックレター』は親に渡しました。
『ウルトラマン対宇宙鬼』、『それ行け!コロット』は
親に一部を渡し一部でクーラーを購入し、残りは貯金しました
- デビューが決まった時の感想は?
『コミックレター』時は、怖い、いいのかこれで?でした。
『ウルトラマン対宇宙鬼』、『それ行け!コロット』時は、
嬉しさ半分で、やっとデビュー出来たのか…と言う思いと、
永井豪先生に頂いた言葉の中で、弓を射る時、
浅く引き早く放せば直ぐには飛ぶ(デビュー出来る)が
飛距離が出ず失速する。
深く引けば溜めた分だけ遠くへ飛べる(長持ちする)と言う
言葉が浮かびました。早くデビューしたいと焦っていましたので、
浅く引いた悪いデビューでは…と考えていました
- デビュー作が実際に雑誌に掲載された時の感想は?
『コミックレター』時は、印刷されるとこんな風になるのかと思いました。
『ウルトラマン対宇宙鬼』、『それ行け!コロット』時は、
なんだこの下手な漫画は…この下手な絵は…。
絶対、人に見せたく無い!と本気で思いました
- デビュー前後でマンガに対する考えかたに変化はありましたか?
石ノ森章太郎先生の漫画入門は僕のバイブルでしたので、
暗記出来るくらい何度も繰り替えし読み込んでいたので
知識を得た気分になっていましたが、やはり読者と言う存在には
まだ現実的に気が付いていなかったと実感しました
- デビューの頃、編集者と打ち合わせをどの程度していましたか?
『コミックレター』は、打ち合せは無く、掲載された雑誌が送られて来て、
同封されていた「掲載しました」と言う手紙を見て初めて知りました。
『ウルトラマン対宇宙鬼』、『それ行け!コロット』は、1〜2度しました
- その頃編集者との打ち合わせでためになったことは?
自分の伝えたい事がそのまま伝わらないのではなく、
自分の伝える力が不足しているのだと言う事が判りました
- 逆に編集者との打ち合わせで苦労したのはどんなときですか?
〆切りを守る苦労をはじめて知った事と、漫画家と編集者の相性は大切であり、
漫画家に編集者を選ぶ選択権が無いと言うことです。
そこに加えて、何の苦労も無くデビューまで漕ぎ着けたので、
世間知らずで苦労知らずで、お絵書きの延長で遊び気分の甘さが
抜けていなかったのが余計に苦労したのだと思います。
つまり、プロになる以上、自分を相手に伝える事も大切ではあるが、
相手を知る事はもっと大切な事だと気が付かなければいけないと言う事ですね
- 編集者との打ち合わせなどはどのような形でしていましたか?
FAXは当時は持っていなかったので、主に喫茶店やレストランでの
打ち合わせで、住んでいる所まで来て頂いたり、
出版社にお伺いしたりしていました
- 編集者とのつきあいで思い出に残るエピソードがありましたら教えてください
これは必ず貴方の財産になるから漫画を描きなさいと
コミカライズではありますが描かせて頂いた作品に、
『宇宙刑事ギャバン』と『装甲騎兵ボトムズ』があります。
僕を知らない方々でも両作を知っている方は多くおいでなので、
その編集の方の言葉通り作家としてその財産に助けられています。
また、現在はクリアになっていますが、とあるメディア化された作品の
権利処理等でボタンの掛け違いが生じた事があるのですが、
世界中の人間が敵になっても僕は貴方を信じます!と言ってくれた
編集の方がおり、今でも公私共に仲良くさせて頂いています
- デビューの頃、良きライバルとか、語り合えるマンガ家さんはいましたか?
永井豪先生、石川賢先生、桜多吾作先生、蛭田充先生らには
良く話を聞いて頂いたうえに、
お金も無く大変だろうと、しょっちゅう、御飯も食べさせて頂いていました。
会社の諸先輩にも話しを聞いて頂いたり食事をおごって貰ったりしていました。
誰某がライバルなどと呼べる器ではありませんので、特におりません。
語り合えるのは同じ岩手から上京した親友達でした。
語り合える先輩漫画家には柳沢きみお先生等がおりました
- デビューの頃、マンガ家として成長していくために特になにかしたこと、勉強したことなどはありますか?
自分の事はさて置き、人の話を良く聞くと言う事を主軸に考え、
漫画は描く人ばかりが読むのでは無く、一般の方が中心で読むモノなので
漫画の勉強では無く、一般の方々との接点を持つ勉強をする事を心掛けました
- デビューの頃、マンガ家として特に何か悩んだことなどはありますか?
ダイナミックプロは読者の頃から尊敬し憧れていた漫画家の永井豪先生、
石川賢先生、桜多吾作先生、蛭田充先生等のいらした会社なので、
デビュー時には全ての絵柄や表現の仕方が、そっくりになって
しまっていた事です。出版社へ持ち込んだ時、永井豪は2人も要らないと
言われた時は愕然としました。自分では似ていないつもりでも、
100%模倣作品になっていたのです。
ダイナミックプロの絵は好きな絵柄なので真反対に方向性を
向ける事は辛かったです。
自分らしい絵柄に到達するまで再デビューから7〜8年の月日を要しました。
今でもまだ〆切に追われ急いで作画をするとダイナミックプロ風な
感じが出ます。
プロの世界に入り初めて目を明けた時、見たのは永井豪先生と
ダイナミックプロであり、育てて頂きましたので、親も同然であり、
同じDNAを持つ立場と考え、現在ではそれに逆らわず受け入れ自然体で
漫画を描くようにしています
- デビュー作を今の自分が再評価すると100点満点中何点?
『コミックレター』は30点。
『ウルトラマン対宇宙鬼』、『それ行け!コロット』は0点
- またその理由は?
『コミックレター』は素人ながら良くやった方なので…。
『ウルトラマン対宇宙鬼』、『それ行け!コロット』はプロになるため
永井豪先生、石川賢先生、桜多吾作先生、蛭田充先生や先輩方の
作品(生原稿)を汚しながら育てて頂き、修行をさせて頂いたのに、
この程度か…と言う思いから
- マンガ家としてデビューするために必要なことはなんだと思いますか?
折れない心、自分を信じる強い心と良い環境と
周囲の方々との心の通い合いです。
好きで歩き始めた漫画道です。
頼まれて漫画を描き始めた訳ではないと思いますので、
独立独歩の考えで甘える事なく精進して頂きたいと思います
- これからマンガ家を目指す人達になにか一言
自分を信じる事、自分を信じてくれる方々を信じ愛する事。
プロになる以上、単なる独り善がりの自己満足は終わりにして、
常に読んで下さる方を対象とした自己満足に励んで頂きたいと思います
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1957年9月8日生まれ。岩手県出身。
1973年、高校1年(16歳)の時に『コミックレター』で近代映画社関係の雑誌でデビュー。高校卒業と同時に永井豪先生のダイナミックプロに入社し、2年間の修業時代を過ごし20歳の時に独立するとともに投稿作『最終バス』で集英社・週刊少年ジャンプ新人漫画賞入選を受賞。
21歳の時には『ウルトラマン対宇宙鬼』、『それゆけコロット』で小学館・小学2年生で再デビューするほか、22歳の時には『われら中ガキ連』で集英社・赤塚賞を受賞。また23歳の時には『マーダーゲーム』で講談社・新人漫画賞特別入選を受賞するなど精力的な投稿を行う。その甲斐があって、以後小学館の学年誌や講談社のコミックボンボン、テレビマガジンなどを中心に数々の作品を発表し、現在に至る。
主な作品に、講談社コミックボンボンでの『装甲騎兵ボトムズ』(原作/高橋良輔)、『ラジコンキッド』(原案/神保史朗)、『電脳警察サイバーコップ』、同社テレビマガジンでの『宇宙刑事ギャバン』(原作/八手三郎)、『宇宙刑事シャイダー』(原作/八手三郎)など多数の名作があるほか、2003年には長年スーパーヒーローを描き続けているのなか先生ならではの企画写真集『アクションポーズ写真集/大葉健二スーパーヒーロー編』(MPC)を編集構成している。
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