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プロとして活躍しているマンガ家さんたちもかつては新人さんだった(あたりまえだけど)。新人のマンガ家さんにとってデビューは良きにつけ悪しきにつけ、忘れられないターニング・ポイント。このコーナーでは、マンガ家さんのデビューの頃の話を質問形式で語ってもらいます。
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【第12回目のゲスト/大野純二先先生】
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【大野純二先生への30の質問】
- デビューはいつ頃ですか?
20歳でした
- デビュー作のタイトルは?
『ヒューマン ノット デッド』というSFです
- デビュー作の簡単なストーリーを教えてください
ターミネーターのようなタイムスリップ物で、未来から現代へやって来た未来を変えたい敵側と変えたくない主人公との戦い
- デビュー作でもっとも描きたかったことは?
物事を変えたくても変えられない困難さみたいなものです。でも今思えばSFを描きたかっただけかも
- デビューした雑誌は?
マガジンフレッシュという季刊誌です
- どのような形でデビューしましたか?(マンガ賞受賞作、持ち込み作など)
週刊少年マガジンの新人漫画賞に応募しました
- デビュー作はマンガを描き始めてどのくらい(期間)でしたか?
1年半目くらいだったでしょうか
- またそれは何作目ぐらいでしたか?
専門学校の課題で描いた数ページの漫画を入れなければ、2作目です
- そのころの本業(学生、フリーターなど)はなんでしたか?
漫画科のある専門学校生です
- そのころは本気でマンガ家を目指していましたか?
はい。今でも同じ気持ちなんですけど、自分にはこれしかない! …そんな感じでがむしゃらでした
- もしマンガ家としてデビューしていなければどんな仕事につくつもりでしたか?
陸上自衛隊か車の整備士です
- マンガ家デビューの際の家族の反応はいかがでしたか?
漫画家なんて…と半分反対していた母親が文字通り飛んで喜んでいたのが印象的でしたね
- 目標としていたマンガ家さんがいたら教えてください
大友克洋先生です。絵もまねようと必死でした
- そのマンガ家さんのどこにひかれていましたか?
全てです
- デビュー作の原稿料または賞金は何に使いましたか?
趣味のギターを買いました。それとペン先をいっぱい買った覚えがあります
- デビューが決まった時の感想は?
自分って運がいいのかな? と思いました。なにせ2作目でしたので
- デビュー作が実際に雑誌に掲載された時の感想は?
嬉しいのは言うまでもないのですが、半年以上前に描き上げたものだったのでアラが沢山見えてきて、次はもっといいものを描くぞというファイトで燃えました
- デビュー前後でマンガに対する考えかたに変化はありましたか?
特にないのですが、自己満足で描くのはやめようと思いました
- デビューの頃、編集者と打ち合わせをどの程度していましたか?
週1回のペースでした。編集さんには今考えると迷惑な話なのですが、アポを取るにも編集さんが忙しすぎて週1回もままならなかった時期がありまして、その時は編集部にずっと居て、編集さんが一休みしてるところへすかさず「ネーム見てください!」と無理矢理アポ無し打ち合わせをしてもらっていました
- その頃編集者との打ち合わせでためになったことは?
とにかく人に見せることを大前提に漫画を作っていくことです
- 逆に編集者との打ち合わせで苦労したのはどんなときですか?
前に述べた通り打ち合わせの時間を作ってもらうことです
- 編集者との打ち合わせなどはどのような形でしていましたか?
作品の良い所を見つけたらそれを高め、悪い所があれば直すの繰り返しでした
- 編集者とのつきあいで思い出に残るエピソードがありましたら教えてください
デビューからずっと担当してもらっていた編集さんが他の編集部へ昇格して異動してしまった時です。寂しいのと心細いので思わず泣いてしまいました
- デビューの頃、良きライバルとか、語り合えるマンガ家さんはいましたか?
西山優里子先生のところでアシスタントを4年間していたので、もっぱら西山先生とそこのスタッフさん達と、仕事をしながら語ってました
- デビューの頃、マンガ家として成長していくために特になにかしたこと、勉強したことなどはありますか?
デッサン力をつけたい一心で人体解剖図鑑を穴が開くほど見ましたし、今でもちょくちょく見てます
- デビューの頃、マンガ家として特に何か悩んだことなどはありますか?
絵が硬いといろんな編集さんからの指摘があったので、どうすれば柔らかく親しまれる絵になるのか? とても抽象的な事だったのでいつも悩んでました
- デビュー作を今の自分が再評価すると100点満点中何点?
100点です!
- またその理由は?
なんと言っても熱意だけはあふれるほど注いだつもりですから。その他は力量不足過ぎて赤点ですが
- マンガ家としてデビューするために必要なことはなんだと思いますか?
情熱と自分の漫画を人に楽しんでもらいたいという気持ちだと思ってます
- これからマンガ家を目指す人達になにか一言
チャンスを見逃さないでください。チャンスだと思ったら全身全霊でアタックしてください
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1975年生まれ。高校卒業後漫画家を志し大阪総合デザイン専門学校に入学。在学中描いた作品を当時の専門学校の先生がいくつかの出版社に持ち込み、週刊少年マガジンの後の担当編集の眼にとまる。その作品でマガジンの月例新人漫画賞で奨励賞を取る。それをきっかけに東京へ上京、本格的にプロを目指す。
上京後は自分の作品を描きつつ当時週マガで連載中のバスケットボール漫画『ハーレムビート』(西山優里子先生)に初めてアシスタントとして入り主に背景を担当、4年間にわたり腕を磨く。その間も自分の作品も着々と仕上げマガジン新人漫画賞で度々賞を取る。中でも佳作を受賞した『HUMAN NOT DEAD』はフレッシュマガジンに掲載され、初の商業誌デビューを飾る。
その後も忙しいアシスタントの仕事の間をぬって精力的に担当編集者と打ち合わせを続け、ほぼ毎日一日20ページのネームを書き、その甲斐もありメキメキと画力・ネーム構成力が上がりプロの漫画家として実力をつける。アシスタント途中には週刊少年マガジン誌上で『こんなもん見てきたよ』というタイトルで毎週4〜5ページの最新スポット紹介漫画を1年間にわたり連載、いよいよ本格的な連載に向けて忙しい日々を過ごす。
1998年週マガの兄弟誌マガジンスペシャルで当時流行した格闘ゲームが原作の『私立ジャスティス学園』という格闘漫画を連載開始。その大胆なアクションシーンとゲームを超える迫力で話題を呼び9ヶ月にわたり連載する。しかしそれで満足することなく週マガでの連載を目指し、2000年ついに念願の週刊少年マガジンでビリヤード漫画『ホットショット』がスタート。魅力ある主人公と奇抜なアイデアで中高生に人気となり、後にマガジンスペシャルに連載の場を移しながらもコミック全5巻にわたる長期連載を続ける。
現在はコミックボンボンで子供に大人気なゲームキャラをモチーフにした『太鼓の達人』という4コマ漫画を連載中、新たな一面をみせる。そのかたわら週刊少年マガジンで再び新連載を目指して新企画を構想中、一日も早い連載をのぞまれている。
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