【立迫文明先生への30の質問】
- デビューはいつ頃ですか?
2000年5月
- デビュー作のタイトルは?
『仰天人間バトシーラー』
- デビュー作の簡単なストーリーを教えてください
変身するヒーローたちの海洋冒険譚
- デビュー作でもっとも描きたかった事は?
いきいきとしたキャラクター
- デビューした雑誌は?
『コミックボンボン』
- どのような形でデビューしましたか?(マンガ賞受賞作、持ち込み作など)
タイアップ企画ではまりました
- デビュー作はマンガを描き始めてどのくらい(期間)でしたか?
17年目(アメリカのセミみたいですが、小学生から描いてたので)
- またそれは何作目ぐらいでしたか?
7作目
- その頃の本業(学生、フリーターなど)はなんでしたか?
週刊漫画誌専属アシスタントでした
- その頃は本気でマンガ家を目指していましたか?
むろんですが、アシスタントが長くなりキッカケを求めていました
- もしマンガ家としてデビューしていなければどんな仕事につくつもりでしたか?
そのままアシスタントを続けていたでしょう
- マンガ家デビューの際の家族の反応はいかがでしたか?
紐で閉じられてる児童向けだったので、探すのが大変そうでした。
応援してくれました
- 目標としていたマンガ家さんがいたら教えてください
高橋留美子先生
- そのマンガ家さんのどこにひかれていましたか?
楽しく広がりのある世界を作ってたところ
- デビュー作の原稿料または賞金は何に使いましたか?
右から左へとアシスタント代とトーン代と・・・PS2(笑)
- デビューが決まった時の感想は?
本当に載るまではドキドキしてました
- デビュー作が実際に雑誌に掲載された時の感想は?
うわ〜載ってる〜ヤバい、下手だ 修行が全然足りん!って思いました
- デビュー前後でマンガに対する考えかたに変化はありましたか?
好きで描くのと仕事で描くのは大違いでした
- デビューの頃、編集者と打ち合わせをどの程度していましたか?
月に数回長かったり短かったりやってました
- その頃編集者との打ち合わせでためになった事は?
さまざまな編集者と話すと見方が色々あるので、
自分のブレを無くさないと、と思いました
- 逆に編集者との打ち合わせで苦労したのはどんなときですか?
打ち合わせの時に頭をフル回転させていないと、実際のネームやるとき苦労します
- 編集者との打ち合わせなどはどのような形でしていましたか?
結構護国寺に通った記憶がありますが・・・
- 編集者とのつきあいで思い出に残るエピソードがありましたら教えてください
自身大食いで通っていたのですが、編集者さんのほうが食べてビックリ
- デビューの頃、良きライバルとか、語り合えるマンガ家さんはいましたか?
村枝賢一氏(幼馴染)おーくらやすひろ氏、河合克敏先生
- デビューの頃、マンガ家として成長していくために特に何かした事、勉強した事などはありますか?
構成を観察してました しかし、一朝一夕では身につかないと思い知りました
- デビューの頃、マンガ家として特に何か悩んだ事などはありますか?
なぜ人気が取れる漫画とそうでない漫画があるのか、悩みました。
一生の悩みになるかも
- デビュー作を今の自分が再評価すると100点満点中何点?
72点
- またその理由は?
当時は自信を持って描いたのでしょうが、この微妙さが後を引いたんです
- マンガ家としてデビューするために必要な事はなんだと思いますか?
実際の現場にどんだけ首を突っ込めるか、何も持たずに顔を出すには度胸いりますから
- これからマンガ家を目指す人達になにか一言
やっぱり描いて見せないと何も始まらない!
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熊本県出身。高校卒業後漫画家を志し上京。ゲーム会社勤務を経て、1992年少年サンデー(小学館)まんがカレッジ佳作。数々のアシスタントを経て、2000年コミックボンボン(講談社)『仰天人間バトシーラー』でデビュー。その後、『面白いほどよくわかる日本経済入門』(原作勝山悠・宙出版)シリーズ等を執筆。現在は埼玉県で活動中。
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